創造の城とふるさとの河
富山のふるさとに関する事、謎や神秘、真実の追求
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神通川の由来 その2
さて、神通川という名前がついたのは、いつのことなのだろうか。
いつから神通川と呼ばれるようになったのだろうか。

神通川という名前が初めて文献に出てきたのは戦国時代に入ってからで、越後の守護代、長尾為景(ながおためかげ)感状(上杉家文書)において、
「上杉謙信の父、長尾為景が永正17年(1520年)12月に新川郡の新庄城において布陣したので、越中国の支配者神保慶宗は遊佐、椎名、土居といった国侍と連合して神通川を超えて新庄城で対戦し、慶宗は敗死した」とある。
この時代に神通川のどこを渡ったかは定かではないが、婦中町の長沢に、為景が長沢の月留(つきとめ)という所で落とし穴に落ちて戦死したという伝承が残っており、現在の長沢地区へ通じるあたりを渡った可能性がある。
これ以後文献上において神通川を渡った記述が、永禄12年(1569年)10月上杉輝虎(のちの謙信)が越中を警戒した際(上杉輝虎書状案)や、元亀2年(1571年)上杉謙信が越中の十数ヶ所の敵城を攻め落とした際(北条氏政書状)の出来事として出てくる。
その後、江戸時代には部分的な種々の異名が残されており、舟橋川、千歳川、草島川、千原崎川、岩瀬川、有磯川など、神通川に面した地域的名称が記録されている。

それでは戦国期以前はどのように呼ばれていたのだろうか。
じつはこれについては複数の説があり、実際のところはっきりとしたことは分かっていない。

まず一番古いものでは、万葉の時代において、越中国守大伴家持が天平20年(748年)に詠んだ歌の中に神通川の古称らしき名前が出てくる。

「売比河の 早き瀬ごとに 篝さし 八十伴の男は 鵜川立ちけり」
(めひがわの はやきせごとに かがりさし やそとものをは うかわたちけり)

この中の「売比河(めひがわ)」である。これは現代語では「めいがわ」と読み、「婦負河」とも書く。
家持が鵜飼をしている人たちを見て作った歌で、婦負河の流れの速い瀬ごとに、かがり火をたいて、たくさんの官人たちが鵜飼を楽しんでいる、という意味である。

さらにもう一つ、この一つ前に詠んだ歌

「鵜坂河 渡る瀬多み この我が馬の 足掻きの水に 衣濡れにけり」
(うさかがわ わたるせおおみ このあがまの あがきのみずに きぬぬれにけり)

には「鵜坂河(うさかがわ)」という川名が出てくる。
家持がこの年の春に管下諸郡を巡行し、現在の婦中町鵜坂にある式内鵜坂神社の近くで鵜坂川と呼ばれていた渡り瀬の多い川(現在の神通川)を対岸の新川郡に向かって(東方向に)渡った時の歌である。
鵜坂河を馬で渡ったが、あまりに瀬が多いので、馬の足で掻く水のしぶきで、着物がすっかり濡れてしまった、
という歌である。
ちなみにこの歌碑が現在鵜坂神社の後方の神通川の土手に建立されている。

売比河(婦負河)も鵜坂河も神通川の古名であるが、鵜坂河は地域の名にちなんだその地域のみの川名、売比河は川の総名、というのが通説のようである。が、確証はない。(鵜坂川は井田川のこととする説もある)


その後にあたる説として、神通川の古名が「宮川」だったという話がある。
これは地域郷土史や神社に伝わる伝承などにいくつか見られる。
宮川は現在の神通川の岐阜県内での河川名であるが、昔は岐阜県の源流から富山の河口まで全て「宮川」だったということだろうか。
現在、岐阜県の宮川沿いを見ると宮川町という名前が広くあるが、昔は富山でも神通川の両岸沿いの一帯は宮川郷と呼ばれていたらしい。
多久比礼志神社に伝わる伝承には、多久比礼志神社は近世において神通川沿岸38カ村からなる宮川郷の惣社(そうじゃ)であった、ということが記録されている。
また実際に石黒信由関係資料の古地図で文政6年(1823年)のものを見ると、神通川の両岸に沿って広範囲で宮川郷の記述がある。(川名の表記は神通川)
しかし神通川の古名が宮川だったということと宮川郷との関係性は定かではない。
ただ少なくとも神通川が中古以来の呼び名であること、神通川の古名が宮川であったことは、いくつかの文献にみられるのは事実である。


以下角川日本地名大辞典からの引用

“じんづう 神通<大沢野町>
神通川段丘縁にある。神通川の古称は宮川といい、川の両岸を含めて宮川郷のうちであった。神々がここを通ったので神通といい、川名を神通川としたという(多久比礼志神記)”

“みやかわむら 宮川村<婦中町>
〔近代〕明治22年〜昭和29年の婦負郡の村名。〜〜略〜〜 村名の由来は、神通川の古名であったことと、当村を貫流する小川に宮川と称するものがあったことによる(婦負郡誌)”

以下大沢野町史からの引用
“大沢野町に所在するのが婦負郡七座のうちに数えられる多久比礼志神社である。古伝承によれば、宮川(神通川の古称)の清流を取り込んで神池をつくり、玉垣をめぐらし、三つもの橋が架かる広大な社地に社殿がそびえていたという。”

以下大久保町郷土誌からの引用
“この神通川には古来種々異名があり、大伴家持の歌には賣比河とあり、一説に鵜坂河と呼ばれたものもこれだといわれ、又有磯川の称もある。當地方の古伝ではもと宮川といったと伝える。”


ちなみに岐阜県の宮川の由来も記しておくと、宮川の名は源流にある飛騨国一の宮 水無(みなし)神社があることに由来するという。
また、位山の麓はかつて宮村と称し(現在の一之宮町)、その中を流れる川なので宮川とよばれたともある。

宮川の名がはじめて文献に出てくる時期はちょっと分からないが、古地図でみると高山外記(たかやまげき)が天神山城(後の高山城)に在城した頃(1505〜1520年)の高山城下町絵図(天神山城図)に宮川と江名子川が描かれている。
神通川がはじめて文献に登場した頃と同じ時期である。


以上ざっと調べて分かったことだが、これらをまとめると富山県における神通川の呼び名の変遷は結局、

 売比河 → 宮川 → 神通川

であったと見て取れる。
しかしあくまで推測である。


<参考文献>
・角川日本地名大辞典 16 富山県/角川書店/1979年
・角川日本地名大辞典 21 岐阜県/角川書店/1980年
・富山県史 通史編1 原始・古代/富山県/1976年
・越中富山地名伝承論 著:中葉博文/クレス出版/2009年
・大沢野町史 編:大沢野町史編纂委員会/2005年
・大久保町郷土誌 編:大久保町史編纂委員会/1954年
・神通川と呉羽丘陵 著:廣瀬 誠/桂書房/2003年
・神通川むかし歩き/桂書房/2016年
・全世界の河川事典/丸善出版/2013
・とやま百川/北日本新聞社/1976年
・大地の記憶―富山の自然史著:藤井 昭二/桂書房/2000年
・越中万葉百科 編:高岡市万葉歴史館/笠間書院/2007年
・ひだ宮川物語/宮川を美しくする会/2008年
・ADEACデジタルアーカイブ
・国土交通省ホームページ
・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典/ブリタニカ・ジャパン株式会社
・日本の地名がわかる事典/講談社
・Wikipedia
・その他ウェブサイト





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