創造の城とふるさとの河
富山のふるさとに関する事、謎や神秘、真実の追求
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富山の創世記2
《古墳時代/飛鳥時代/奈良時代》

3世紀後半から4世紀始めにかけて、畿内を中心に巨大な前方後円墳が作られました。
それは畿内の大和地方に、強力な政治権力者、巨大な王権があったことを表しています。
この大和王権なる巨大な勢力は、4世紀以降、北陸地方にも勢力を伸ばしてきました。
このことは日本最古の歴史書、古事記や日本書紀に記されており、北陸地方のことを「コシ」と呼んでいます。
漢字は、古事記では「高志」、日本書紀では「越」、出雲国風土記では「古志」と記されています。
漢字表記で「越」に統一されるのは8世紀以降で、それまでは「高志」「古志」「越」といろいろ使われていたようです。日本書紀では「越の洲(こしのしま)」「北陸」とも出てきています。

この大和王権の北陸進出についての記述ですが、日本書紀において崇神(すじん)天皇の10年のこととして次のように書かれています。
「大彦命(おおひこのみこと)を北陸(北陸道・越)に、
武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)を東海(東海道)に、
吉備津彦命(きびつひこのみこと)を西道(山陽道)に、
丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)を丹波(後の令制国の丹波国、丹後国、但馬国にあたる領域)に、
派遣し、命令に従わない者は兵を挙げて討伐するよう命じ、4人に印綬(いんじゅ・しるし)を授けた。」
この4人は四道(しどう)将軍と言われています。
(ちなみに吉備津彦命は、おとぎ話桃太郎のモデルになった人物です。)

越の範囲、いわゆる大和王権の北陸地方における勢力範囲は、3世紀から7世紀にかけて、今の福井(若狭・越前)から順番に、石川(加賀・能登)、富山(越中)、新潟(越後)、山形・秋田(出羽)と北に向かって段階的に広がっていったとみられています。
越より北の勢力外地域は蝦夷(えぞ・えみし)と呼び、異族視されていました。
また当時は関東や東北、北海道など東日本のほとんどの地域がまだ勢力範囲外だったので、大和王権はこれらの地域も全て蝦夷と呼んでいました。

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4世紀末から7世紀初頭にかけて、大和王権は地方を支配する為に、各地方を今でいう郡ほどの大きさに区切って、各領域に国造(くにのみやつこ)という官職を置きました。国造には当時有力だった各地方の首長層を任命しました。
越国では全部で13の国造が定められました。
西から順番に、若狭(わかさ)・角鹿(つぬが)・三国(みくに)・江沼(えぬま)・加我(かが)・加宜(かが)・羽咋(はくい)・能等(のと)・伊弥頭(いみづ)・久比岐(くびき)・高志(こし)・高志深江(こしのふかえ)・佐渡(さど) となっています。
国造は、後の令制国(りょうせいこく)に相当する範囲に複数置かれたとみられますが、後の越中の領域には伊弥頭1つしか置かれませんでした。
勢力範囲の広さが特徴的なその伊弥頭ですが、国造の官職についた者として唯一文献に記述されているのが、成務(せいむ)天皇の時代の、大河音足尼(おおかわとのすくね)です。
(国造本紀(こくぞうほんぎ)(先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)第10巻)に記述されています。)
大河音足尼は、蘇我氏の祖先である武内宿禰(たけのうちのすくね)の孫にあたります。父は若子宿禰(わくごのすくね)です。
伊弥頭国造の勢力拠点は、現在の射水市のあたりにあったものと考えられ、呉羽山丘陵周辺の古墳が当時の国造の存在の大きさを表しています。

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646年(大化2年)孝徳天皇が改新の詔を発布しました。(大化の改新)
647年(大化3年)現在の新潟市阿賀野川河口周辺に渟足柵(ぬたりのき)といわれる城柵(じょうさく)が設置され、翌648年には新潟県村上市岩船周辺に磐舟柵(いわふねのき)が設置されました。
城柵というのは当時の軍事的な防御施設のことで、大和王権が蝦夷に備えるために設置したものであり、これは当時の越国の北端を意味しています。
城柵はその後も8世紀前半にかけて、都岐沙羅柵(つきさらのき)、出羽柵(でわのき)、秋田城(あきたのき)、雄勝城(おかちのき)と、徐々に北に向かって設置されていきます。
ただ、これを作るために地元の労働人が大量に徴用されたのですが、大和王権に容易に服従しない人たちもいたようで、なかなか簡単には支配、平定はできていなかったようです。こうした越の国の反逆人は、越蝦夷(こしのえみし)と呼ばれていました。

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701年(大宝1年)大宝律令(たいほうりつりょう)が制定されます。
これは大和王権が、中国「唐」の法制度に習って律令(りつりょう)を定め、地方支配と中央集権国家を目指したものです。

続日本紀(しょくにほんぎ)に、702年「越中国四郡を分かちて、越後国に属せしむ」とあり、このときに初めて文献に「越中」という国名が出てきました。この内容からみると大宝律令制定時にはすでに越中、越後という国が存在していたことになります。

ここでいう越中から越後の所属となった四郡というのは、頸城(くびき)、魚沼(うおぬま)、古史(こし)、蒲原(かんばら)の四郡のことと考えられています。この四郡は現新潟県の領域で言うと西端〜中央部分まで占める大きな領域にあたります。
現富山の領域にも元々、射水(いみず)、礪波(となみ)、婦負(ねい)、新川(にいかわ)の四郡があったので、7世紀以前の越中は八郡を占める巨大な国だったことになります。
また同じく7世紀以前の越後は、現在の新潟県北部(阿賀野川以北)から山形県庄内、秋田県日本海側の領域までおよんでいたと言われています。

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越後は708年11月14日に出羽郡を設置、そこに出羽柵(でわのき・山形県庄内地方)を築造しました。
そして712年10月27日に出羽郡は出羽国として新たに制定され越後から分立、713年10月1日には陸奥国から置賜郡と最上郡を譲渡、併合されました。
一方越前国では、718年5月に越前国北部にあたる羽咋郡、能登郡、鳳至郡、珠洲郡の四郡が能登国として分立しました。

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741年12月、能登国を越中国に併合。
743年2月、佐渡国を越後国に併合。
746年6月、大伴家持(おおとものやかもち)が越中国の国守に任命され、7月に越中に赴任してきました。
越中国府の国庁は、勝興寺(現高岡市伏木)境内およびその周りの一帯にあったとされています。
この時の越中は能登の領域も含んでいたので、家持は東の現魚津市あたりから、北は能登半島の端まで多くの場所を諸郡巡行しました。
家持は帰京するまでの5年間、国守の任務を遂行しながらも、越中の素晴らしい自然、情景を多くの歌に詠み、残しています。それは後に万葉集に編纂され、今でも富山県人に越中万葉として親しまれています。
751年7月、大伴家持が少納言に任ぜられ、帰京しました。

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752年11月、佐渡国が越後国から再び分立。
757年5月、能登国が越中国から再び分立。

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823年、越前国を南北に2分割し、加賀郡と江沼郡の2郡で加賀国を設立。
加賀郡の浅野川以南を河南郡として分離、
また江沼郡の北部を能美郡として分離。
同年6月に河南郡は石川郡に改称。

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<参考文献>
・ふるさと富山歴史館 著:深井 甚三 他/富山新聞社/2001年
・図説 富山県の歴史/河出書房出版/1993年
・富山県史〈通史編 1〉原始・古代/富山県/1976年
・北陸の風土と歴史 著:浅香 年木/山川出版社/1977年
・越と出雲の夜明け 著:宝賀 寿男/法令出版/2009年
・越と古代伝承(富山史壇37号38号39号抜刷) 著:広瀬 誠/1967年
・越中の大昔―地形・アイヌ語 著:間方 徳松/1981年
・とやま古代のロマン 先史文化研究グループ編/北日本新聞社/1987年

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富山の創世記1
《更新世初期(約260万年前〜)》
富山県の現在の地形が形成されたのは、今から50〜100万年ほど前だと言われています。
この頃はまだ人はいません。

《旧石器時代(約3万年前〜1万5000年前)》
現在の富山県の地域に人が登場するのは約3万年前の旧石器時代になります。
この頃は氷河期(ヴュルム氷期)のまっ只中で、気温が今より6〜7℃ほど低く、海面も現在より140mほど低下しており、日本列島はアジア大陸と陸続きになっていました。
この頃に大陸からナウマンゾウやオオツノジカなどが日本に渡ってきて、またそれを追って人間も日本にやってきたと考えられています。
自然の環境は今とはかなり違っており、現在は高山に見られるカラマツ、ブナ、ツガなど冷帯性の植物が低地に繁茂しており、その森林の中にニホンジカ、イノシシ、キツネなどの現在種の他、マンモス、ナウマンゾウ、野牛、オオツノジカなどの絶滅種も生息していました。
この頃人は複数の家族で小さな集団をつくり生活していました。
石を砕いて作った打製石器を道具として使い、火を起こして暖をとったり、狩りで取った獲物の肉を焼いたりして食べていました。
立山町白岩藪ノ上(しらいわやぶのうえ)遺跡や城端町の立野ヶ原(たてのがはら)遺跡群から石斧やナイフ形の旧石器が発見され、これが今のところ県内最古の人類遺物とされています。
今から約2万9000年前に降り積もった火山灰より下の層から出土しているので、これよりも古い年代のものと考えられています。

全国から出土したこの時代の旧石器を調べてみますと、ナイフの形など地域による特徴があることが分かりました。
すでにこの頃から文化の違いというものが生まれていたことになります。
県内の遺跡を調べてみますと、上市町の眼目新丸山(さっかしんまるやま)遺跡から、東北地方の日本海側に多く見られる東山系のナイフ形石器が出土していたり、大沢野の直坂(すぐさか)遺跡から、長野県〜新潟県にかけて分布する杉久保系ナイフ形石器が出土していたり、小矢部市の安養寺(あんようじ)遺跡から、瀬戸内地方に分布する瀬戸内技法による国府型ナイフ形石器が出土していたり、と日本東西の文化がこの時代、富山の地に入ってきていることが分かりました。
また逆に、城端町の立野ヶ原(たてのがはら)遺跡群で知られる立野ヶ原型ナイフが、東は秋田県の米ヶ森遺跡(よねがもりいせき)に、西は岡山県の早風(はやかぜ)遺跡に見られることも分かりました。
石の産地で見てみると、立山町白岩藪ノ上遺跡や大沢野町直坂(すぐさか)Ⅱ遺跡から長野県産の黒曜石が、城端町西原(にしばら)B遺跡や射水市の小杉丸山(こすぎまるやま)遺跡から岐阜県産の下呂石が、福光町立美(たつみ)遺跡から青森県深浦産の黒曜石が発見されています。
富山県はよく東日本と西日本の文化の接点と言われていますが、東西の交流はすでに旧石器時代から始まっていたのです。

流通ルートとしては、西日本との流通は飛騨を経由したルート、また東北地方との流通は、舟で日本海を通って行っていたようです。
新潟県佐渡島から旧石器が発見されており、この頃からすでに舟を使用していたことが分かっています。

石器時代の終盤になると、先端が尖った木の葉形の石器(尖頭器)を棒の先端に固定した「槍」を使うようになりました。
これによって狩猟の効率が上がりました。
さらにこの後、狩猟道具の進歩、改良が進み、ついには画期的な発明とも言える「弓矢」が登場しました。
弓矢は槍よりも携帯性や命中度に優れており、さらに狩猟の効率が上がりました。
この頃、こうした乱獲もあってか同時にナウマンゾウやオオツノジカなど大型動物が絶滅してしまいました。

《縄文時代(紀元前1万4000年〜紀元前300年頃)》
やがて人は粘土をこねて形をつくり、焼いて「土器」をつくることを発見しました。縄文時代の始まりです。
約1万5000年前、縄文時代に入ると、今まで寒かった気候が今度は温暖期に変わっていきます。
それに伴い氷河が溶け、海面も上昇します。(縄文海進と言われています)
1万5000年ほど前から徐々に暖かくなり、6000年前(縄文時代前期)のピーク時には現在よりも気温が2〜3度高く、海面も5〜6mほど高くなりました。
草原が減り、ナラやブナの落葉広葉樹林などの森林が広がり、人は食料としてこれまでの大型動物から、シカやイノシシなどの中型動物、イルカ、シジミなど魚介類、またドングリ、トチノミ、クリなど保存食にもなる木の実を採取するようになりました。
弓矢を使って狩猟をし、食料を調理したり保存するために、先述した縄文土器が使われました。
土器を使用することによって、今まで焼く、蒸すだけだった料理法に、「煮る」が加わりました。
県内の縄文時代の遺跡は数多くありますが、最も古い土器が出土した所として、立山町の白岩尾掛遺跡(しらいわおかけいせき)
が最古だと言われています。

富山市の小竹貝塚からは約7000年前のものが発掘され、その時代の生活様式を示しています。
貝塚というのは縄文時代の人々が食べた貝の殻などを捨てたものが堆積し、層となっている遺跡のことです。
発見された大量の貝殻の中には、大タニシや蜆(しじみ)、サザエ、ハマグリなどがあり、他にもクロダイ、スズキ、サメ、コイなど魚の骨、アシカ、イルカの骨、シカ、イノシシ、イヌなどの動物の骨が発見されました。
その他土器や石器、骨角器(こっかくき)と言われる骨や角から作られた道具、釣り針、そして小竹貝塚人と言われる人骨も発掘されました。

縄文時代前期に非常にたくさん作られた、言わば北陸富山の名産品ともいえる物があります。
玦状(けつじょう)耳飾りです。環状の一部に切れ目が入ったアルファベットのCの形をした耳飾りで、耳たぶに穴をあけて、そこに通すイヤリングのような装身具です。材質は主に滑石(かっせき)や蛇紋岩(じゃもんがん)が使われています。
これを製作した遺跡は、北陸地方に集中しており、とくに富山県上市町の極楽寺遺跡からは千個近い未完製品が見つかっています。
この玦状耳飾りの文化は、縄文時代早期から中期までの間に繁栄しており、またちょうど同じ時期に中国の長江下流域でも、同じ玦状耳飾りが見つかっています。縄文時代中期に日本側で玦状耳飾りが衰退するのと同じくして中国の方も玦状耳飾りは見られなくなります。このことから、舟を使い大陸側との繋がりも深かったことが想定されます。

縄文時代中期(約5000年前)から、翡翠(ヒスイ)を使った文化が登場します。ヒスイとは深緑の半透明な宝石で、新潟県糸魚川、青海、富山県朝日町宮崎海岸が産地として有名です。
縄文時代は呪術や祭祀が支配する時代とも言われており、当時は人々の生活の基盤として、霊的なものへの信仰や呪術が大きな役割をはたしていました。
ヒスイは見た目にも非常に美しく神秘的で、霊力が宿っていると信じられており、主に呪術の道具や宝飾品として使われていました。
堺A遺跡からヒスイを加工して作った大珠(たいしゅ)やま勾玉(まがたま)が発掘され、今では国の重要文化財に指定されています。
また朝日町の明石(あげし)A遺跡には、勾玉や管玉(くだたま)など、玉作りの拠点としての史跡が残っています。
富山県ではこの頃からヒスイを使った玉作りに力を入れていたようです。
富山県と新潟県の県境付近を中心に発掘されたこのヒスイは、やがて全国に広まり、ヒスイ文化なるものを形成します。
しかしそのヒスイ文化も縄文時代から古墳時代までおよそ3500年続いた後、なぜか忽然と姿を消してしまいます。

《弥生時代(紀元前300年〜後300年頃)》

弥生時代になると射水平野で稲作が始まります。稲作が日本で一番早く始まったのは現在の福岡県で、縄文時代晩期から始まっているので、富山はそれより少し遅れて始まったことになります。
稲作の技術は、中国大陸から入ってきました。
当時中国では戦国時代(紀元前479年〜紀元前221年)と呼ばれる戦乱の世の中で、この戦乱を逃れて朝鮮や日本へ移住する人々がいました。福岡から島根県までの日本海沿岸に渡来人とみられる面長で身長の高い人骨が発掘されています。この人たちが稲作やその他色々な大陸の文化を日本に伝えたと考えられています。
大陸から日本へ渡来し定住した人々のことを大陸系弥生人といい、日本に元々いた縄文人が新文化を受け入れ、弥生人となった人々のことを縄文系弥生人といいます。また両者の混血および子孫たちを混血系弥生人といいます。
現在の日本のおもに九州〜本州に住む人々の先祖は、この混血系弥生人ということになります。
一方、北海道(アイヌ民族)と沖縄(琉球民族)など極地に住む人々は、この渡来人の影響を受けていないので、日本元来の縄文人が先祖ということになります。アイヌ民族と琉球民族はDNAの観点からも共通点が多いようです。

さて日本での稲作の伝搬ですが、実は西日本では縄文時代からすでに畑での栽培としてムギやアワとともに稲も作っていたことが分かっています。なので本格的な水田での稲作技術が大陸から伝わったときも、西日本は比較的すんなり受け入れられたようです。逆に東日本の縄文人にとっては、森を切り開き水田に変えていく行為は、最初は受け入れがたかったかもしれません。しかし次第に時代の流れとともに栄養的にも利便性にも優れた米の良さが理解されるようになり、日本全国に水田が広がっていきます。
米は1日に3合(約450g)、1年に1石(約150kg)あれば、1人分最低限の栄養がまかなえると言われています。
これまでは自然に生息する植物や動物を採って食べることが主だったので、食料の収穫量が少なくなれば別の場所に移動することもあったわけですが、稲の栽培が始まるとその成長を見守り、水も管理しなければならないので平野部での定住化が進みます。定住化が進み米も多く食べるようになると、当然人口も増えていきます。
こうして米中心の日本文化が作られていきました。
富山県では水田を耕した最古の農具として、弥生時代後期の木製の鍬(くわ)や鋤(すき)などが上市町江上(えがみ)A遺跡から発掘されています。また県内最古の水田跡としては古墳時代中期のものが高岡市福岡町下老子(しもおいご)笹川遺跡として発見されています。

この時期、集落には米を貯蔵する高床倉庫や井戸が作られ、木製農具や弥生土器が使われました。
高床倉庫は湿気やネズミなどの害を防ぐ為に床を高くしてあります。
井戸は地下水を汲み上げる為に掘られました。土が崩れて埋まらないように木の筒を埋め込むなど工夫を凝らしたものも作られています。またこのことから、水は水田稲作用に川から引き込むものと、飲料用や神前へのお供え用に井戸から汲み上げるもの、2種類を区別していることが分かりました。

弥生時代になると、大陸から青銅器や鉄器が入ってきて、青銅は銅鐸、銅剣、銅矛など祭りの道具として、また鉄は剣や斧など武器・工具として使われました。
県内では弥生時代末(3世紀前半)には農具としても鉄が使われ始めました。
大門町串田新遺跡や小矢部市谷内(やち)16号墳から鍬や鋤の先に取り付ける板状鉄刃先が見つかっています。
しかしこういった新しい技術の普及は、人々に豊かさをもたらす一方で、人々の間に貧富の差と争いを生み出すようになってしまいました。

稲作の普及で定住化が進むと、家族同士の小さな地域的な集まりから、自然に「村」が形成されていきます。
例えば江上(えがみ)A遺跡と中小泉(なかこいずみ)遺跡がある上市町白岩川流域では、直径約10kmの範囲内に約30ヶ所の遺跡が残されており、それらは9つほどの村を形成していたと考えられています。
こういった村々は、集団の大きさや、鉄の入手先である畿内勢力との結びつきの深さなどによって次第に優劣の差、身分の違いが生じていき、これがやがて争いを生むようになります。
射水郡囲山(かこいやま)遺跡から県内最古の鉄剣が、氷見市惣領浦之前(そうりょううらのまえ)遺跡から朱塗りの盾が発掘され、これらはこの時期争いがあったことを表しています。

中国の歴史書「漢書 地理志(かんじょ ちりし)」によると、弥生時代中期(紀元前100年頃)の倭国(日本)は、百余国に分かれていたと言います。ここでいう国とは、今の郡ほどの大きさで形成される村々の集まり(クニ)のことのようです。

中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」によると、2世紀後半から3世紀前半、日本では倭国大乱と言われるクニ同士の争いが起こり、やがて邪馬台国と言われる一つのクニが頂点に立ちます。その邪馬台国の女王が卑弥呼と呼ばれる呪術者で、この卑弥呼が倭国の王とされていたようです。
ちなみに邪馬台国が日本のどこに存在したのかは、はっきり分かっていません。
九州説や畿内説など複数の説があります。またその名前の発音の仕方や、後の大和王権までの推移など(邪馬台国が畿内に移って大和王権になったとか、畿内で誕生した大和王権に邪馬台国が滅ぼされたとか)いろんな説が乱立しています。

このころ北陸一帯では、月影(つきかげ)式土器と言われる独特な形をした土器が使われており、こうした土器の共通した特徴や、またヒスイ等を使った玉作りなどモノ作りの共通性に、北陸地域独特の文化が見られることから、この北陸一帯が一つのクニとしての領域を形成していたと考えられます。
この富山県地域と、当時の邪馬台国との関係性ははっきり分かりませんが、同じ一つのクニとして、石川県地域や新潟県地域など、少なくとも近隣地域とは強い結びつきを持っていたようです。

当時のこの北陸地域が何と言う名前で呼ばれていたかは、はっきり分かっていません。
「コシ」という名前が文献にでてくるのはもう少し後、4世紀以降になってからです。
ですが土器の特徴からみるこの北陸の文化圏が、後の古事記・日本書紀にでてくるコシのクニの地域と重なることから、おそらく当時から「コシ」とよばれていた可能性が高いと思われます。

また2〜3世紀のこの頃、前述した倭国内の戦乱の中、それを逃れて山陰から北陸の方へ人が移転してきています。
四隅突出形墳丘墓という古墳が、弥生中期に中国山地で作られ始め、やがて島根、鳥取、福井、石川、富山と、日本海に沿って徐々に波及してきていることから、人々の移転が分かりました。
コシのクニは、そういった山陰から移転してきた人々も加わり、その後さらに東へと開拓を進めていったことが推測されます。

<参考文献>
・ふるさと富山歴史館 著:深井 甚三 他/富山新聞社/2001年
・図説 富山県の歴史/河出書房出版/1993年
・富山県史〈通史編 1〉原始・古代/富山県/1976年
・北陸の風土と歴史 著:浅香 年木/山川出版社/1977年
・越と出雲の夜明け 著:宝賀 寿男/法令出版/2009年
・越と古代伝承(富山史壇37号38号39号抜刷) 著:広瀬 誠/1967年
・越中の大昔―地形・アイヌ語 著:間方 徳松/1981年
・とやま古代のロマン 先史文化研究グループ編/北日本新聞社/1987年




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