創造の城とふるさとの河
富山のふるさとに関する事、謎や神秘、真実の追求
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神通川の由来 その3
では今度はなぜ「神通川」とよばれるようになったのか調べてみよう。

これまた調べれば調べるほど、それはもう多くの説が出てくる。
名前が「神が通る川」というだけに、やはり神様にまつわる伝承、神話的な話が多い。


【1】
まず最初に一番有名な説。
これは神通川でも岐阜県宮川の源流に近い水無神社付近での伝承。
国土交通省ホームページの河川紹介に載っているのもこれ。

「むかし飛騨の仙人が川の付近の山中で修行していた時、お経を読むのに川の水音がうるさかったので、神通力で龍王を呼び出し、水の音を止めるように言った。すると川の水は地中にもぐり、約二里(約8キロ)にわたって水が無くなってしまい、水音が聞こえなくなった。
これを知った人々は、その仙人の神通力に驚嘆し、以来その川を神通川と呼ぶようになったという。」

この川の伏流のはなしは、水無神社の由来にも関係しているようである。
ただこの話は宮川源流の地域のはなしであり、だとしたら源流から全て神通川となったのなら分かるが、なぜ富山県領域のみ神通川なのかという疑問が残る。


【2】
次に、神が通る川の由来として一番それっぽいはなし。
神通川、宮川、高原川を含め、川沿いには「津」が付く地名が現在でもいくつかある。
船津(ふなつ)、寺津(てらづ)、今生津(いもづ)、笹津(ささづ)。
「津」は船着場の意味である。

「太古の昔、神々は飛騨神岡の船津から乗船し、越中の笹津に着船されることが例であった。
当時の川は満々たる水量で、船運に富んでいた。」

古来神通川は、飛騨と越中を結ぶ重要な交通ルートであり、物資の運搬ルートでもあった。
昔は川の水量も多く船がよく活用されたらしい。
神々が船で通った川だから神通川とよばれるようになった、ということである。
ここでは神々と神格化されているが、実際は先祖や高貴な人の意味だと思う。


【3】
次は富山の伝説の中でもかなり有名な話、姉倉姫(あねくらひめ)の伝説を由来とするもの。

富山市大沢野町舟倉にある姉倉比売神社は織物神である姉倉比売命を主祭神とする。
「むかし舟倉山(ふなくらやま・今の猿倉山もしくは御前山)に姉倉姫という神がいた。姉倉姫は能登の補益山(ふえきやま・今の石動山)の神、伊須流岐彦(いするぎひこ)と夫婦であった。しかし伊須流岐彦は、近くにいた能登の杣木山(そまぎやま)の神、能登姫にそそのかされ、恋仲になってしまった。怒った姉倉姫は国中の兵士を集め能登姫征伐の軍を起こした。一方能登姫も徹底抗戦の構えをみせた。姉倉姫は布倉山の神、布倉姫を助っ人に加え、また能登姫も加夫刀山の神、加夫刀彦(かぶとひこ)を助っ人に加え、ここに越中・能登をまたいだ敵味方入り乱れる大戦乱となってしまった。
この事態を知った高天原の高皇産霊神(たかみむすびのかみ)は大変驚き、出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと)に、この越の争いを鎮めるよう命じた。
大国主命は見事この戦乱を鎮圧し、伊須流岐彦と能登姫はともに海に流された。一方姉倉姫は呉羽山西麓の小竹野(現JR呉羽駅前の姉倉比売神社らしい)に流され、越中の女性たちに糸つむぎと機織りを教え罪を償うよう命ぜられた。罪を償い終えた姉倉姫はその後元の舟倉山へ帰ることができた。」

という伝説である。長くなってしまったが、ようするに姉倉姫と伊須流岐彦夫婦が川を通って交流したことや、また最後姉倉姫が呉羽山まで川を流され、その後舟倉山へ戻ったという経緯から、神が通った川、神通川となったらしい。


【4】
鵜坂の神(鵜坂神社)と、塩の神(多久比礼志神社)の交遊によるもの。

鵜坂(うさか)神社は、富山市婦中町鵜坂、神通川西岸にある。また多久比礼志(たくひれし)神社は、鵜坂から約8kmほど南へ行った所にある富山市塩、神通川東岸にある。どちらも延喜式神名帳に載る越中三十四座(式内社)の一つである。
鵜坂神社は婦負郡発祥の神として知られる。鵜坂について、昔神通川には鵜が沢山生息しており、大伴家持の歌にもみえるように鵜飼いが行われていたということから、この名がついたと言う説がある。

また多久比礼志神社に伝わる塩の伝説がある。
「672年に林弥鹿伎(はやしのみかき)という人が神通川を船で遡上していると、白髪の老人が現れて「向こうの川辺の松の木の所に泉がある。水は塩味を帯びているから、きっと塩が取れる。塩は貴重だから人々は大きな恩恵を受けるだろう」と教えてくれた。弥鹿伎は早速泉を見つけ、水を煮詰めてみると、立派な塩が取れた。弥鹿伎は老人が神であったことを知り、そこに神殿を作って祀った。これが多久比礼志神社の由来であり、またこの地の地名「塩」の由来でもある。」

多久比礼志神社社伝に「鵜坂神と塩の神が交遊されたから神通といい、また宮川ともいう」とあるらしいが、それ以上の詳細は不明。


【5】
鵜坂の神(鵜坂神社)と、松尾の神(松尾神社)の交遊によるもの。

鵜坂神社については上記を参照。松尾神社は富山市布瀬町、ちょうど鵜坂神社と神通川を挟んで対岸にある。
鵜坂神社は神通川に面し、松尾神社は川を後ろにしていたが、鵜坂の鳥居は川に面して建てられ、両社が相対していたので、神々の交遊のためだと言われていた。現在鵜坂の鳥居は堤防上にはなくなった。


【6】
最後に神様とは関係のない説。
神通川の東には常願寺川(じょうがんじがわ)があり、西には六渡寺川(ろくどうじがわ)がある。神通川はその間にあるので、おそらく神通と名の付く寺が昔あったのではないか、ということらしい。
六渡寺川とは現在の小矢部川と庄川のことである。(かつて小矢部川と庄川は途中で繋がっていた)
これは明治35年刊行の大日本地名辞典を編纂した歴史地理学者吉田東伍博士の説であり、また地元国文学者の志田延義博士も同意だったという。
現在高山市に神通寺という寺があるが、調査の結果創建時期が江戸時代の文化、文政の年代(1804〜1831)であったことから、神通川の起源でないことが判明した。したがって現在のところ神通川の名前の由来となるような神通と名の付く寺の存在は確認されていない。

富山県の河川名の通例は、多くが上流名を河川名としている。また同時にほとんど土地先の名前ででも呼ばれている。
しかし神通川と常願寺川は例外のようである。常願寺という寺名についても、かつて実在したらしいが、川の名前の由来がこれによるものかどうかははっきりしない。



<参考文献>

・伝説とやま 編:北日本放送(株)/1971年
・越中傳説集 著:小柴直矩/富山県郷土史会/1959年
・大久保町郷土誌 編:大久保町誌編纂委員会/1954年
・大沢野町史 編:大沢野町史編纂委員会/2005年
・神通川と呉羽丘陵 著:廣瀬 誠/桂書房/2003年
・角川日本地名大辞典 16 富山県/角川書店/1979年
・角川日本地名大辞典 21 岐阜県/角川書店/1980年
・富山県史 通史編1 原始・古代/富山県/1976年
・越中富山地名伝承論 著:中葉博文/クレス出版/2009年
・国土交通省ホームページ
・Wikipedia
・その他ウェブサイト

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神通川の由来 その2
さて、神通川という名前がついたのは、いつのことなのだろうか。
いつから神通川と呼ばれるようになったのだろうか。

神通川という名前が初めて文献に出てきたのは戦国時代に入ってからで、越後の守護代、長尾為景(ながおためかげ)感状(上杉家文書)において、
「上杉謙信の父、長尾為景が永正17年(1520年)12月に新川郡の新庄城において布陣したので、越中国の支配者神保慶宗は遊佐、椎名、土居といった国侍と連合して神通川を超えて新庄城で対戦し、慶宗は敗死した」とある。
この時代に神通川のどこを渡ったかは定かではないが、婦中町の長沢に、為景が長沢の月留(つきとめ)という所で落とし穴に落ちて戦死したという伝承が残っており、現在の長沢地区へ通じるあたりを渡った可能性がある。
これ以後文献上において神通川を渡った記述が、永禄12年(1569年)10月上杉輝虎(のちの謙信)が越中を警戒した際(上杉輝虎書状案)や、元亀2年(1571年)上杉謙信が越中の十数ヶ所の敵城を攻め落とした際(北条氏政書状)の出来事として出てくる。
その後、江戸時代には部分的な種々の異名が残されており、舟橋川、千歳川、草島川、千原崎川、岩瀬川、有磯川など、神通川に面した地域的名称が記録されている。

それでは戦国期以前はどのように呼ばれていたのだろうか。
じつはこれについては複数の説があり、実際のところはっきりとしたことは分かっていない。

まず一番古いものでは、万葉の時代において、越中国守大伴家持が天平20年(748年)に詠んだ歌の中に神通川の古称らしき名前が出てくる。

「売比河の 早き瀬ごとに 篝さし 八十伴の男は 鵜川立ちけり」
(めひがわの はやきせごとに かがりさし やそとものをは うかわたちけり)

この中の「売比河(めひがわ)」である。これは現代語では「めいがわ」と読み、「婦負河」とも書く。
家持が鵜飼をしている人たちを見て作った歌で、婦負河の流れの速い瀬ごとに、かがり火をたいて、たくさんの官人たちが鵜飼を楽しんでいる、という意味である。

さらにもう一つ、この一つ前に詠んだ歌

「鵜坂河 渡る瀬多み この我が馬の 足掻きの水に 衣濡れにけり」
(うさかがわ わたるせおおみ このあがまの あがきのみずに きぬぬれにけり)

には「鵜坂河(うさかがわ)」という川名が出てくる。
家持がこの年の春に管下諸郡を巡行し、現在の婦中町鵜坂にある式内鵜坂神社の近くで鵜坂川と呼ばれていた渡り瀬の多い川(現在の神通川)を対岸の新川郡に向かって(東方向に)渡った時の歌である。
鵜坂河を馬で渡ったが、あまりに瀬が多いので、馬の足で掻く水のしぶきで、着物がすっかり濡れてしまった、
という歌である。
ちなみにこの歌碑が現在鵜坂神社の後方の神通川の土手に建立されている。

売比河(婦負河)も鵜坂河も神通川の古名であるが、鵜坂河は地域の名にちなんだその地域のみの川名、売比河は川の総名、というのが通説のようである。が、確証はない。(鵜坂川は井田川のこととする説もある)


その後にあたる説として、神通川の古名が「宮川」だったという話がある。
これは地域郷土史や神社に伝わる伝承などにいくつか見られる。
宮川は現在の神通川の岐阜県内での河川名であるが、昔は岐阜県の源流から富山の河口まで全て「宮川」だったということだろうか。
現在、岐阜県の宮川沿いを見ると宮川町という名前が広くあるが、昔は富山でも神通川の両岸沿いの一帯は宮川郷と呼ばれていたらしい。
多久比礼志神社に伝わる伝承には、多久比礼志神社は近世において神通川沿岸38カ村からなる宮川郷の惣社(そうじゃ)であった、ということが記録されている。
また実際に石黒信由関係資料の古地図で文政6年(1823年)のものを見ると、神通川の両岸に沿って広範囲で宮川郷の記述がある。(川名の表記は神通川)
しかし神通川の古名が宮川だったということと宮川郷との関係性は定かではない。
ただ少なくとも神通川が中古以来の呼び名であること、神通川の古名が宮川であったことは、いくつかの文献にみられるのは事実である。


以下角川日本地名大辞典からの引用

“じんづう 神通<大沢野町>
神通川段丘縁にある。神通川の古称は宮川といい、川の両岸を含めて宮川郷のうちであった。神々がここを通ったので神通といい、川名を神通川としたという(多久比礼志神記)”

“みやかわむら 宮川村<婦中町>
〔近代〕明治22年〜昭和29年の婦負郡の村名。〜〜略〜〜 村名の由来は、神通川の古名であったことと、当村を貫流する小川に宮川と称するものがあったことによる(婦負郡誌)”

以下大沢野町史からの引用
“大沢野町に所在するのが婦負郡七座のうちに数えられる多久比礼志神社である。古伝承によれば、宮川(神通川の古称)の清流を取り込んで神池をつくり、玉垣をめぐらし、三つもの橋が架かる広大な社地に社殿がそびえていたという。”

以下大久保町郷土誌からの引用
“この神通川には古来種々異名があり、大伴家持の歌には賣比河とあり、一説に鵜坂河と呼ばれたものもこれだといわれ、又有磯川の称もある。當地方の古伝ではもと宮川といったと伝える。”


ちなみに岐阜県の宮川の由来も記しておくと、宮川の名は源流にある飛騨国一の宮 水無(みなし)神社があることに由来するという。
また、位山の麓はかつて宮村と称し(現在の一之宮町)、その中を流れる川なので宮川とよばれたともある。

宮川の名がはじめて文献に出てくる時期はちょっと分からないが、古地図でみると高山外記(たかやまげき)が天神山城(後の高山城)に在城した頃(1505〜1520年)の高山城下町絵図(天神山城図)に宮川と江名子川が描かれている。
神通川がはじめて文献に登場した頃と同じ時期である。


以上ざっと調べて分かったことだが、これらをまとめると富山県における神通川の呼び名の変遷は結局、

 売比河 → 宮川 → 神通川

であったと見て取れる。
しかしあくまで推測である。


<参考文献>
・角川日本地名大辞典 16 富山県/角川書店/1979年
・角川日本地名大辞典 21 岐阜県/角川書店/1980年
・富山県史 通史編1 原始・古代/富山県/1976年
・越中富山地名伝承論 著:中葉博文/クレス出版/2009年
・大沢野町史 編:大沢野町史編纂委員会/2005年
・大久保町郷土誌 編:大久保町史編纂委員会/1954年
・神通川と呉羽丘陵 著:廣瀬 誠/桂書房/2003年
・神通川むかし歩き/桂書房/2016年
・全世界の河川事典/丸善出版/2013
・とやま百川/北日本新聞社/1976年
・大地の記憶―富山の自然史著:藤井 昭二/桂書房/2000年
・越中万葉百科 編:高岡市万葉歴史館/笠間書院/2007年
・ひだ宮川物語/宮川を美しくする会/2008年
・ADEACデジタルアーカイブ
・国土交通省ホームページ
・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典/ブリタニカ・ジャパン株式会社
・日本の地名がわかる事典/講談社
・Wikipedia
・その他ウェブサイト

神通川の由来 その1
神通川の名前の由来については諸説あるが、確然としたものはない。

先ず名前の読み方だが、Wikipediaをみると、じんずうがわ、じんづうがわ、じんつうがわの3つが書いてある。
3文字目が「ず」か「づ」か、はたまた濁音か清音かの違いなのだが、地元で多くの人に慣れ親しまれているのは「じんずうがわ」である。
ローカル局のアナウンサーも「じんずうがわ」と言っている。
また英語表記も「Jinzu River」である。
ちなみに「じんづうがわ」は発音が同じでひらがな表記の違いだけなので、これはまあ、どっちでもありだと思う。
実際にいくつかの事典、辞書等をみてみると、ほとんど「じんずうがわ」もしくは「じんづうがわ」である。

では「じんつうがわ」はいったい何なのだろうか。
実はこれ、国土交通省ホームページの一級河川の紹介ページに書いてある。
http://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/04_hokuriku.html
神通川の下にはっきりと「じんつうがわ」と振り仮名が振ってある。
打ち間違いかと思いきや、次の神通川の紹介ページでも「じんつうがわ」である。
調べてみると国土交通省水管理・国土保全局資料や、河川法でも「じんつうがわ」となっているらしい。
一級河川の管理者である国土交通省がこう表記しているのだから、神通川は本当は「じんつうがわ」なのか。
自分は今までずっと間違って読んでいたのか。
いや何かへんだ。そんなはずはない。

でも考えてみると、神通川の名前の由来で一番有名な説が「神通力(じんつうりき)」からきているというもので、ここから取ったと考えれば「じんつうがわ」という読みも確かにおかしくはない。

昔、山の仙人がお経を唱えるときに、川の音がうるさかったので、龍を呼んで川の音を止めさせた。
人々はその仙人の神通力の凄さに驚いて、この川を神通川と名付けた、という伝承である。


他にも色々調べてみると、デジタル大辞泉で次の説明をみつけた。

“じんずう‐がわ〔ジンヅウがは〕【神通川】
富山県中央部を北流し、富山湾に注ぐ川。長さ約120キロ。上流は岐阜県境で高原川と宮川に分かれる。発電所が多い。
[補説]「じんづうがわ」と仮名書きする場合もあるが、本辞典では昭和56年(1981)に刊行された『標準地名集(自然地名)増補改訂版』(建設省国土地理院地図管理部)に基づいて「じんずうがわ」を本項目とする。”
(デジタル大辞泉/小学館 から引用)

同じ省庁でも(建設省は国土交通省の前身)昔の国土地理院の資料では、「じんずうがわ」となっているようである。
いやはや、結局はただ単に統一されていないだけの話なのか。

なんだか訳がわからなくなってきたので、気分転換に近くの神通川まで散歩に行ってきた。
そしたらこんな看板があった。


神通川に架かる橋の入り口によく立てられている国土交通省の看板である。

何だか鮎が食べたくなってきた...


最後におまけ。
上流には神岡(かみおか)という、神を訓読みする町がある。
昔は神通川も訓読みで「かみとがわ」と呼んだという説もある。
しかし確証はない。


<参考文献>
・角川日本地名大辞典 16 富山県/角川書店/1979年
・全世界の河川事典/丸善出版/2013
・とやま百川/北日本新聞社/1976年
・Wikipedia
・国土交通省ホームページ
・デジタル大辞泉/小学館
・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典/ブリタニカ・ジャパン株式会社
・日本の地名がわかる事典/講談社
・その他ウェブサイト


神通川について
神通川は自分が生まれ育った場所のすぐ横を流れる、とても思い出深い川である。
神が通る川。
この神秘的なひびきを持つ名の川に、ふりかえれば生まれてから何かずっと見守っていただいているような気がする。
この川のことを今更ながらに、少し調べてみようと思い立ち、記事を書いてみた。

神通川は、岐阜県飛騨高地にある川上岳(かおれだけ・1626m)(文献によっては位山(くらいやま・1529m)ともある)を源流とし、岐阜県高山を通り、富山県のほぼ中央を北流し富山湾へと注ぐ広大な川である。
富山7大河川の一つであり、富山県に5つある1級河川の一つ。
※富山の7大河川=小矢部川、庄川、神通川、常願寺川、早月川、片貝川、黒部川
※富山の1級河川=小矢部川、庄川、神通川、常願寺川、黒部川



富山湾から遡って行ってみよう。
富山市草島にある富山港の赤灯台を右岸に、ゆったりと中へ入っていき、しばらく南に行くと、先ず富山大橋のすぐ南、鵯島(ひよどりじま)で南西へ井田川(支流)に分かれる。
(井田川の源流は岐阜県飛騨市河合町山中の白子峠)
さらに南へ行くと有沢橋と婦中大橋の中間、布瀬町で南東へ熊野川(支流)に分かれる。
(熊野川の源流は富山県富山市有峰の西笠山)
そして富山空港を飲み込むようにそのすぐ西脇を流れ、中神通、西神通の中洲地帯を迂回し、笹津でJR高山本線、国道41号線と一緒になり、共に狭く深い山間部へと入っていく。
笹津橋から南へおよそ20kmにわたる神通川の渓谷を神通峡(県定公園)といい、富山有数の絶景の名所である。
庵谷では川は山地をぐるっと迂回し美しい片路峡(かたじきょう)を作りだしている。



川はやがて富山と岐阜県境の猪谷(いのたに)まで来ると、南西へ向かう宮川(本流)と南東へ向かう高原川(支流)に二股に分かれる。神通川はここで宮川に名前を変える。

高原川の方は本流から別れた後、国道41号線と一緒に南東の神岡方面へ入っていく。いわゆる昔の越中東街道である。
高原川はその後支流の跡津川と別れ、神岡市街地、船津で南西に向かう41号線、山田川と分かれる。
川はそのまま南東へ遡って双六川と別れた後、奥飛騨に入り、さらに蒲田川と別れ平湯を通り、やがて源流の乗鞍岳に行き着く。
なお高原川は源流から蒲田川の合流地点までを別名平湯川(ひらゆがわ)とも言う。

さて本流の宮川は、猪谷で神通川から名を変えた後、一旦国道41号線とは別れ、高山本線、国道360号線と一緒に南西の宮川町方面へと入っていく。いわゆる昔の越中西街道である。
やがて、さらに西へ向かう支流の小鳥川、360号線と別れ、高山本線と共に今度は南へ方向を変えて進む。
そして山地を抜け、古川国府盆地に出る。
宮川はここで、一時高原川と一緒に東へ行っていた国道41号線と再び出会う。
宮川、高山本線、国道41号線の三者はそのまま仲良く南へと進み、古川町を通り、高山にたどり着く。

高山を流れる宮川は穏やかだ。
飛騨高地から激しく下ってきた川が、ここでひと休みし、時折り羽を休めに降りてくるサギや鯉たちと一緒に朝市や古い町並みを楽しんでいるかのよう。
(実は高山は昔から好きでよく行っていたのだが、地元の神通川と高山の宮川が同じ川だったということを知ったのは、なんとつい最近。なんとも恥ずかしいかぎりである。)

高山を出てさらに南へ遡り、飛騨一ノ宮、水無(みなし)神社の所で、ついに宮川は高山本線、国道41号線の両者とお別れをし、ひとり南西へと向かう。
そして飛騨高地を登り、やがて自分の生まれ故郷である川上岳、位山へとたどり着くのである。


富山の創世記2
《古墳時代/飛鳥時代/奈良時代》

3世紀後半から4世紀始めにかけて、畿内を中心に巨大な前方後円墳が作られました。
それは畿内の大和地方に、強力な政治権力者、巨大な王権があったことを表しています。
この大和王権なる巨大な勢力は、4世紀以降、北陸地方にも勢力を伸ばしてきました。
このことは日本最古の歴史書、古事記や日本書紀に記されており、北陸地方のことを「コシ」と呼んでいます。
漢字は、古事記では「高志」、日本書紀では「越」、出雲国風土記では「古志」と記されています。
漢字表記で「越」に統一されるのは8世紀以降で、それまでは「高志」「古志」「越」といろいろ使われていたようです。日本書紀では「越の洲(こしのしま)」「北陸」とも出てきています。

この大和王権の北陸進出についての記述ですが、日本書紀において崇神(すじん)天皇の10年のこととして次のように書かれています。
「大彦命(おおひこのみこと)を北陸(北陸道・越)に、
武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)を東海(東海道)に、
吉備津彦命(きびつひこのみこと)を西道(山陽道)に、
丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)を丹波(後の令制国の丹波国、丹後国、但馬国にあたる領域)に、
派遣し、命令に従わない者は兵を挙げて討伐するよう命じ、4人に印綬(いんじゅ・しるし)を授けた。」
この4人は四道(しどう)将軍と言われています。
(ちなみに吉備津彦命は、おとぎ話桃太郎のモデルになった人物です。)

越の範囲、いわゆる大和王権の北陸地方における勢力範囲は、3世紀から7世紀にかけて、今の福井(若狭・越前)から順番に、石川(加賀・能登)、富山(越中)、新潟(越後)、山形・秋田(出羽)と北に向かって段階的に広がっていったとみられています。
越より北の勢力外地域は蝦夷(えぞ・えみし)と呼び、異族視されていました。
また当時は関東や東北、北海道など東日本のほとんどの地域がまだ勢力範囲外だったので、大和王権はこれらの地域も全て蝦夷と呼んでいました。

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4世紀末から7世紀初頭にかけて、大和王権は地方を支配する為に、各地方を今でいう郡ほどの大きさに区切って、各領域に国造(くにのみやつこ)という官職を置きました。国造には当時有力だった各地方の首長層を任命しました。
越国では全部で13の国造が定められました。
西から順番に、若狭(わかさ)・角鹿(つぬが)・三国(みくに)・江沼(えぬま)・加我(かが)・加宜(かが)・羽咋(はくい)・能等(のと)・伊弥頭(いみづ)・久比岐(くびき)・高志(こし)・高志深江(こしのふかえ)・佐渡(さど) となっています。
国造は、後の令制国(りょうせいこく)に相当する範囲に複数置かれたとみられますが、後の越中の領域には伊弥頭1つしか置かれませんでした。
勢力範囲の広さが特徴的なその伊弥頭ですが、国造の官職についた者として唯一文献に記述されているのが、成務(せいむ)天皇の時代の、大河音足尼(おおかわとのすくね)です。
(国造本紀(こくぞうほんぎ)(先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)第10巻)に記述されています。)
大河音足尼は、蘇我氏の祖先である武内宿禰(たけのうちのすくね)の孫にあたります。父は若子宿禰(わくごのすくね)です。
伊弥頭国造の勢力拠点は、現在の射水市のあたりにあったものと考えられ、呉羽山丘陵周辺の古墳が当時の国造の存在の大きさを表しています。

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646年(大化2年)孝徳天皇が改新の詔を発布しました。(大化の改新)
647年(大化3年)現在の新潟市阿賀野川河口周辺に渟足柵(ぬたりのき)といわれる城柵(じょうさく)が設置され、翌648年には新潟県村上市岩船周辺に磐舟柵(いわふねのき)が設置されました。
城柵というのは当時の軍事的な防御施設のことで、大和王権が蝦夷に備えるために設置したものであり、これは当時の越国の北端を意味しています。
城柵はその後も8世紀前半にかけて、都岐沙羅柵(つきさらのき)、出羽柵(でわのき)、秋田城(あきたのき)、雄勝城(おかちのき)と、徐々に北に向かって設置されていきます。
ただ、これを作るために地元の労働人が大量に徴用されたのですが、大和王権に容易に服従しない人たちもいたようで、なかなか簡単には支配、平定はできていなかったようです。こうした越の国の反逆人は、越蝦夷(こしのえみし)と呼ばれていました。

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701年(大宝1年)大宝律令(たいほうりつりょう)が制定されます。
これは大和王権が、中国「唐」の法制度に習って律令(りつりょう)を定め、地方支配と中央集権国家を目指したものです。

続日本紀(しょくにほんぎ)に、702年「越中国四郡を分かちて、越後国に属せしむ」とあり、このときに初めて文献に「越中」という国名が出てきました。この内容からみると大宝律令制定時にはすでに越中、越後という国が存在していたことになります。

ここでいう越中から越後の所属となった四郡というのは、頸城(くびき)、魚沼(うおぬま)、古史(こし)、蒲原(かんばら)の四郡のことと考えられています。この四郡は現新潟県の領域で言うと西端〜中央部分まで占める大きな領域にあたります。
現富山の領域にも元々、射水(いみず)、礪波(となみ)、婦負(ねい)、新川(にいかわ)の四郡があったので、7世紀以前の越中は八郡を占める巨大な国だったことになります。
また同じく7世紀以前の越後は、現在の新潟県北部(阿賀野川以北)から山形県庄内、秋田県日本海側の領域までおよんでいたと言われています。

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越後は708年11月14日に出羽郡を設置、そこに出羽柵(でわのき・山形県庄内地方)を築造しました。
そして712年10月27日に出羽郡は出羽国として新たに制定され越後から分立、713年10月1日には陸奥国から置賜郡と最上郡を譲渡、併合されました。
一方越前国では、718年5月に越前国北部にあたる羽咋郡、能登郡、鳳至郡、珠洲郡の四郡が能登国として分立しました。

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741年12月、能登国を越中国に併合。
743年2月、佐渡国を越後国に併合。
746年6月、大伴家持(おおとものやかもち)が越中国の国守に任命され、7月に越中に赴任してきました。
越中国府の国庁は、勝興寺(現高岡市伏木)境内およびその周りの一帯にあったとされています。
この時の越中は能登の領域も含んでいたので、家持は東の現魚津市あたりから、北は能登半島の端まで多くの場所を諸郡巡行しました。
家持は帰京するまでの5年間、国守の任務を遂行しながらも、越中の素晴らしい自然、情景を多くの歌に詠み、残しています。それは後に万葉集に編纂され、今でも富山県人に越中万葉として親しまれています。
751年7月、大伴家持が少納言に任ぜられ、帰京しました。

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752年11月、佐渡国が越後国から再び分立。
757年5月、能登国が越中国から再び分立。

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823年、越前国を南北に2分割し、加賀郡と江沼郡の2郡で加賀国を設立。
加賀郡の浅野川以南を河南郡として分離、
また江沼郡の北部を能美郡として分離。
同年6月に河南郡は石川郡に改称。

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<参考文献>
・ふるさと富山歴史館 著:深井 甚三 他/富山新聞社/2001年
・図説 富山県の歴史/河出書房出版/1993年
・富山県史〈通史編 1〉原始・古代/富山県/1976年
・北陸の風土と歴史 著:浅香 年木/山川出版社/1977年
・越と出雲の夜明け 著:宝賀 寿男/法令出版/2009年
・越と古代伝承(富山史壇37号38号39号抜刷) 著:広瀬 誠/1967年
・越中の大昔―地形・アイヌ語 著:間方 徳松/1981年
・とやま古代のロマン 先史文化研究グループ編/北日本新聞社/1987年





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